サイバネティクスから情報学へ

先月の情報学応用論のうちCSとISの教室で、ヴァレリ=アン=ウィルキンソン先生の通訳を担当したのですが、通訳にあたって事前に打合せをした際にウィルキンソン先生の研究領域であるサイバネティクス、一般システム理論の勉強をしたことがあります。その中身は対象を情報現象として捉える情報学の方法論としてよく適合しているのではないかという感想を持ちました。

ただ、色々と事情や不運がありまして、私の観測する限りでは情報学部生にその辺りが上手に伝わっていないのが現状のようです。で、先日7/4(土)に参加した社会情報学会の公開シンポジウムで西垣通先生がたまたま「neo-cybernetics(ネオ・サイバネティクス)」について触れていらっしゃったので、西垣先生のお話を引用しながらサイバネティクスから情報学への連結について紹介してみようと思います。

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以下は、西垣先生のご説明を私なりに解釈して再構築したものです。浅学な知識に基づくため、個々の概念の理解がいまひとつかもしれないので、もしお気づきの点がありましたらコメントにてご教授頂ければ幸いです。

サイバネティクス」および「ネオ・サイバネティクス」は、西垣先生の提唱する21世紀「情報学的転回」のなかに位置づけられます。それは、ウィーナーの提唱するサイバネティクスでは「生命体のダイナミズムを捉えきれない」難点があり、生命体をシステム論的に捉え直すために「ネオ・サイバネティクス」による「生命/社会/機械」にまたがる「情報」概念の整理が必要であるということです。

では、なぜ「情報」なのでしょうか? かつての20世紀言語学(論)的転回では、分析哲学構造主義文化人類学が登場し、「言語」が中心的な道具になりました。そこではすべてのものが言語記号で表現され、論理として説明されるという考え方がありました。例えばフレーゲラッセル、前期ヴィトゲンシュタインなどが思い出されます。しかし、言語はヒトが用いる道具にすぎないため、ヒト以外の生命体や機械を説明するさいに困難が生じてしまいます。

ウィーナーはこの問題に取り組むために、「情報」という考え方を導入しました。松岡正剛氏の表現を借りれば、「システムを「フィードバック系」と捉えたところが画期的だった」のであり、「そのフィードバック系に出入力されるものをすべて「情報」として扱えるようにした」のがウィーナーのサイバネティクスにおけるアイディアでした。しかし、ウィーナーのサイバネティクスは生命体のダイナミズム(自己調整や内的秩序のシステム)を捉えきれないという課題も残しました。それは、機械を中心とする社会秩序形成への批判としても捉えることができるかもしれません。これを克服するものとして研究が進んでいるのが、サイバネティクスを基盤としたネオ・サイバネティクスというわけです。

以上が西垣先生の基調講演の一部の大雑把なまとめになります。情報学的転回、ネオ・サイバネティクスについて深く知りたい方は、以下の文献が参考になると思います。

情報学的転回―IT社会のゆくえ

情報学的転回―IT社会のゆくえ

参考URL:http://1000ya.isis.ne.jp/0867.html
(867夜『サイバネティックス』ノーバート・ウィーナー|松岡正剛の千夜千冊)

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でまぁ、弊学の話に戻るんですけど。

工業高校時代に静岡大学工学部システム工学科(現・数理システム工学科)の説明を聞いたことがありまして、世の中に存在する物理法則は数式として形式化されるシステム系として説明されるという説明を受けまして、今振り返るとサイバネティクス的な思想を体現したような学科だったなぁという印象を持っています。それがカリキュラムとして実現されているのか甚だ疑問ではありますが、あそこで学んだ学生もまたウィーナーの思想を無意識的にしろ受け継いでいるのか、気になるところでもあります。実際、弊学のリポジトリを検索してみるとサイバネティクスに関係する研究に取り組んでいるのは――その内容の是非はおいておくとして――ウィルキンソン先生だけのようですが。

私は特にウィルキンソン先生に直接的なコミットメントを持っているわけではありませんし、学術的な立場から擁護したいというわけでもありませんが、過去のレポートで書いたように、情報学は「「直接関係がありそうだ」という関係可能性が問われる」のですから、サイバネティクスに光が当たるチャンスが失われる光景を見ていると、どうにもなんだか寂しさを感じてならないのです。

研究は研究室の中でしなければならないという規則などありませんので、サイバネティクスや情報学を深く学びたい各位はウィーナーや西垣通先生の著書の読書会を開くなどして積極的に学んでいくとよろしいのではないでしょうか。そこで行き詰まって初めて専門家に聞けばいいのであって、初めから専門家の元で勉強する必要など無いんですよ。そういった学生は利口な反面、その範疇でしか学びが得られないというか、柔軟でなくなると思うんですよね。卒研を書くときにも大分苦しい思いをしそうですけど、それでも卒業できてしまうのが皮肉なところでしょうか。

学び方に関して書き始めると大きく脱線し始める上に、弊学の管理教育についてきちんと言及しなければなりませんので、また別の機会にしたいと思います。