本多勝一『アラビア遊牧民』における異文化イメージの表現と更新

 一週間何も書けないほどに忙しくて、もちろんこれからも忙しいのだけれど、たまにこういった記事で逃げたくなります。大学院2015年度前期「グローバル・コミュニケーション特論」の田中柊子先生担当分のレポートを読みやすさを考慮して装飾・公開します。読書開始からレポート完成までの時間としてはおよそ2日です。締切は昨日中でした。

1. はじめに
 ジャーナリストの本多勝一サウジアラビア遊牧民ベドウィン」を取材したルポルタージュを『アラビア遊牧民』(朝日新聞社、1981年)に著しており、日本人の著者が観察した異文化としてのベドウィンを紹介する格好のテクストである。本レポートは、『アラビア遊牧民』におけるベドウィンないし砂漠の部族に既に結び付けられているイメージ(ステレオタイプ)の表現、更新について分析および考察を行うものである。


2. 本論
 『アラビア遊牧民』では、本多が目にした風景や人物の様子が事実報告として記述されていく。例えば、次の文章では現地人とのやりとりの間合いが文章で再現されている。

広い窓からの展望はほんとうにすばらしかった。写真をとり始めると、こんどは運転士がいった――「列車を止めてやろう」
 いうより早くスピードを落としはじめる。藤木さんは大あわてで、その必要がないことを運転士に説明しなければならなかった。(p.20)

ここでは、運転士の行動が発言よりも先の出来事であることが表現されている。このような書き方は現地人のコミュニケーション行動上の性格を表現するとともに、作者は自文化圏の人間のコミュニケーション行動上の性格に関する知識を下敷きとして、また、同じ文化圏の読者を想定することにもよって、このような書き方を有効にしている。

 また、次の文章ではリヤド市中における処刑の様子が報告されている。

リヤドでは市役所前の広場が処刑広場になる。(中略)群衆をかきわけて前の方に出てみたら、鞭の刑が実施されているところだ。(中略)群衆の表情は、案外平静なものだ。おしゃべりしたり、果物をかじったり。子供たちも、紙芝居かなんか見るような顔つきをしている。(p.24 - 25)

このような光景が日常的な経験として有り得ない日本に住む人間ならば、少なからずの驚嘆と共に感想を漏らすことが予想されるのに対して、本多はあくまで事実報告としての処刑とそれに対する市民について説明を行っている。このように、本多は感想や解釈などを排することで、リヤドの日常を日本人の日常感覚のフィルターに通すことなく読者に伝えようとしていることが考えられる。

 以上のように、本多は『アラビア遊牧民』において、事実報告に徹した表現を行っている。つまり、現地の人間や出来事を文章によって生(なま)のまま、リアルなものとして読者に伝えることに対する、本多のジャーナリスト的な姿勢や態度を見出すことが可能である。

 しかし、サウジアラビアの厳しい自然環境や異質な文化環境について説明を行うとき、時折として本多は事実報告によってのみならず、日本やエスキモーといった他の文化との比較を併せる形をとることがある。簡単に言えば、本多は日本人の読者を想定して、日本人が異国であるサウジアラビアの様子を想像しやすいように、日本人に広く共有されると考えられるイメージやステレオタイプなどを借用していることが予想される。

 そこで、日本人に共有されるイメージやステレオタイプなどを異文化の紹介に利用していると考えられる本文中の表現を引用しながら、イメージやステレオタイプなどがどのように表現・更新されているのかについて、分析と考察を加えていく。


イメージとステレオタイプの表現と更新
 まず、サウジアラビアの沙漠に関する二つの文章を見ていきたい。

月の光が沙漠に満ちると、自然の視覚的背景だけは『月の沙漠』の童謡と大差がないように思われたが、お姫様に類するものは絶対に現れる可能性はなく、私たちが招かれたテントには、むくつけき男ばかり車座になって待っていた。(p.34)

テント村は、クブシャートと呼ばれる水場である。水場といっても井戸が掘ってあるだけで、私たちが沙漠から連想するロマンチックな泉のオアシスではない。(中略)残念ながら、ロマンチックな池ができるほど水が豊富なところは、アラビア半島では例外中の例外だ。(p.30)

前者の文章が話題にしている童謡『月の沙漠』の歌詞は、王子様とお姫様がラクダに乗って沙漠を旅するというストーリーであり、「お姫様」という言葉もこの『月の沙漠』の歌詞に関する知識を前提にしていると考えられる。その上で、本多は「現実の沙漠」の『月の沙漠』の沙漠のイメージによる代替可能性について、自然は「大差がない」としつつ、「お姫様に類するものは絶対に現れる可能性はなく」、現実として男の集団が存在したと言う。

 後者の文章では、「私たちが沙漠から連想するロマンチックな泉のオアシス」をイメージの出発点として、リアル(現実)はそうではなく、「例外中の例外」であると一刀両断している。我々がいかなる時と場所において沙漠からオアシスを連想するようになったのかについては証明困難であるが、そのようなイメージの生成過程がイメージの適用過程とは無縁であることもまた経験的な事実であり、リアルの水場の評価に用いられている。

 いずれの文章においても、まず日本人に広く共有されている沙漠のイメージが歌や連想などによって媒介され、もたらされていると考えられる。本多はこれらのイメージを読者の想像の足場掛けとして活用し、リアル(現実)との差分を明示している。これは、けして読者の持つ沙漠のイメージの棄損するものではなく、リアルの沙漠に対する相対的な誤答として位置づけているにすぎない。

 本多のイメージとリアルを峻別する態度には、事実の伝達を信奉するというイメージが借用されがちなジャーナリストとしての態度以上の意味があるのだろうか。例えば、次の文章を見てほしい。

アラビア半島は、たしかに全土が沙漠である。だが、写真などだけで沙漠を知っていた人は、私のこれまでの文章を意外に思い、あるいは不満さえ感じたかもしれない。(中略)安心していただきたい。写真で知る限りならロマンチックに見える砂丘の波も、ちゃんと存在する。(p.96 - 97)

 この文章では、写真によって得られる沙漠のイメージを話題にしている。つまり、読者が期待する沙漠とは「ロマンチックに見える砂丘の波」が生じるような沙漠であり、本多がこの文章以前に紹介していた、平坦な地面が真っすぐな地平線まで広がり、植物も生息している沙漠は「意外に思」われるのである。これを踏まえた「砂丘の波」の存在への言及は、読者の沙漠のイメージをよりリアルなイメージへと移行させる効果があると考えられる。

 本多は、「写真で知る限りならロマンチックに見える砂丘の波」というイメージを「ちゃんと存在する」というイメージをたらしめる表現を行っている。これは、イメージがリアルとして誤答でしかないのではなく正答でもありうる場合があることを言いたいのではない。問題は、リアルがイメージのリアルらしさを保証する上で、イメージが正答である可能性以上の「何か」が「ちゃんと」保護されているのではないかという疑問である。その「何か」を一言で言い表せば、日本人読者の異文化に対するロマンチシズムではないだろうか。

 ジャーナリストとしての本多は否応なしに異文化をリアルのものとして提示し、その過程でイメージをリアルでないものとして棄損することが宿命づけられている。実際、『月の沙漠』やオアシスのイメージはことごとく想像上の産物として打ち捨てられていった。だからこそ、本多はロマンチックな砂丘をリアルのものとして強調すると同時に、ロマンチシズムすらも保護してみせるのではないだろうか。なぜなら、イメージに付加するロマンチシズムが想像的な存在としてリアルでないことは誰にとっても証明困難だからである。ここにも、本多の一貫したジャーナリスト的な態度を見出せるのではないだろうか。


3. 結論
 『アラビア遊牧民』において、アラビアの異文化は本多によって事実的に報告されている。その過程において日本人に広く共有されるアラビアのイメージをリアル(現実)と対比して提示しているが、本多はリアルのリアルさのみならず、イメージに付加するロマンチシズムもまたリアルなものとして尊重する態度で異文化の紹介に臨んでいると結論づける。


4. 引用文献
本多勝一. (1981). アラビア遊牧民. 朝日新聞社.

アラビア遊牧民 (朝日文庫)

アラビア遊牧民 (朝日文庫)