風紀委員を心に飼いましょう

 本日の情報資源総論は担当が西原純先生の第3回はTLを見るかぎり不平不満が出ていました。たしかに、「情報資源」という言葉は出てこないし、予定の半分ちょっとまでしか内容が進みませんでした。これでは約束が違う、ごもっともです。講義が所与の課題をこなす作業の場であるという立場からすればまったくそのとおりでございます。つまり、「これこれの言葉が出てこなかった」とか、「これこれしか進まなかった」といった認識は、ある一定の枠組みでしか有効ではありません。

 かれらの逆の立場に立てば、これが「地域資源」に着目したトピックであることは容易に想像可能ですし、あたしたちは本来泳ぎ続けるマグロのごとく、常に知的探求の導火線の火種に目を光らせていて、目ざとくも「地域資源」というトピックを見つければ通り一遍の知識と学びを持ってこそ院生というものと言えるでしょう。そこで得た知識に不足がないかどうかの点検場所が講義という場です。

 それは一見として魅力を放つ理想的イメージとして機能しますが、実際とても人々を規範的に相対化する装置でもあります。例えばあたしがそのイメージを行使しようとするとき、あたしは学生の規範的監視者、風紀委員と化します。前者はとても無機的でジョージ・オーウェル1984のような監視社会を想像させ、後者は監視者がシンボル的な存在でしかなかったという実態とでも言えるでしょう。あたしの目的は風紀委員になることではなく、誰かに風紀委員を内在化させることにすぎません。

 もう一つの問題として、身体と意識が情報科学によって乖離しているという言説がありますが、その逆として過剰に身体と意識が一致することも同じ人間に起こりえるのではないかと思うのです。つまり、本音が建前として発信されることはなく、例えばSNS上にすべてが顕な本音として曝け出されてしまいます。それは、建前としての規範を外見上だけでも見せかけたりファッションせよという言説が、SNS上の公共圏においては規範を装ったものだとか、どこか空間でしか機能しない規範といった程度にしか意識されず、ただ虚空の叫びとして漂ってしまうという事態を引き起こします。SNSはヴァーチャルだからどうこう、という形式的な分節など無意味であると、今一度声を張り上げなければならないと思うのです。

 風紀委員を心に飼いましょう。あたしたちの世代が獲得しているキャラクター的な想像力によって、その昔よりかはずっと飼いやすく、躾けやすくなっているはずです。