京大の立て看板規制に思うこと

京大:立て看板、取り戻し設置か - 毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20180515/k00/00e/040/243000c

↑これに関する父上のFB投稿を母上がシェアしていて、そこに↓のコメントを書き込んだら数分で消えていたので父上が投稿消したっぽい。なんで? ということで、行き場の無くなった下書きをここに載せます。

 立て看板は京大自治の象徴、シンボルだから、立て看板のあるキャンパス風景こそが彼らの景観なんでしょ。それで、この記事だけ見ると京大生vs大学当局あるいは京都市という構図に見えるけど、学生だけでなく京大職員組合も立て看板排除に異議を唱えているんだよね(https://mainichi.jp/articles/20180515/k00/00m/040/048000c)。それらが規制対象になるというのは、自治の否定という意味にもとれるわけで。「京大の教職員や学生らが勝手なことをしていて京都市に迷惑を掛けている、けしからん」という見方のいっぽうで、「形式的には行政側の都合によって、京大の教職員や学生らの活動が抑止されようとしている、けしからん」という見方も持っておきたいよね。
 ところで、外側を綺麗に取り繕ってみせるのが観光なのだろうか? それならば京都駅南側も綺麗にすべき、という危険な発想に至らないだろうか? ここは中部に住んでいると意識しにくい視点ではあると思うし、ボクも昨年の京大11月祭に行ったとき、京都駅から河原町通りを歩いてアガりながら見た景色を見て、自分の持っていた京都の町並みのイメージというのは作られたものだったんだなと気付かされた。ボクは小綺麗な側面もイビツな側面も持ち合わせているのが京都の魅力だと思うな。前者は家族旅行で散々連れ回されたので、後者を見て知っていきたい。