思い出を紡ぐために

ある知識を正当化する方法は、例えばヨーロッパの大学の系譜に見ることができる。中世では神がその学問の存在意義を示し、神学・法学・医学・哲学・幾何学・算術・音楽を収めることが標準的だった。近世では啓蒙主義人文主義の発展によって宗教的権威が衰退し、専門領域は「学部」に分化して知識の体系を構築し、ある知識とはそれが所属するディシプリンの中で正当化されていった。そして現代は人間・総合・環境・情報といった接頭辞のつく学部が並び、学際的・領域横断的な研究が行われるようになったが、こうした知の体系を越えて結び付けられたひとつの知識の集合によって示された知見をどのような手続きで正当化できるかについては、未だ方法の模索が行われているようだ。

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例えば今日行ったLTイベントに参加・発表したことが、自分の成長物語を形成する重要な要素になる人がいるとしよう。それは本人にとって重要な要素であるが、そこに関与しない人は重要ではない。ここに、個人の物語的な視点による物事の重要性(権威)の差が感じ取れる。このイベントは学生有志のものであって大学公式のものではないし、正式な公的記録としてアーカイブ化される予定もないだろう。それが紛れも無く事実としてあったことは、少なくとも――限定的・希少な体験として――そこに関わった人々の記憶のうちに収納されるのである。「つぶやき」という機械情報に固定せずとも、我々はきちんとそれを生命情報として処理している。何を外界に固定するか主体的に判断し秩序づける能力が情報リテラシーの根幹であると、自分は思っている。(この考え方はもちろん西垣通のシステム理論に影響されている。)

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でも、なぜだか秩序を自分から破壊していくことの面白さに気付いた時があって、それはニコニコ動画弾幕文化とか、Twitterのテレビ番組実況とかがそうで。簡潔な情報って無味乾燥でつまらないんですよ、冗長なコミュニケーションの方が圧倒的に楽しいんです。すると、そうか、情報処理の秩序とは個人のみならず集団的にも定義できるんだ、と気付くことができた(いわゆるスケールフリーである)。それを踏まえて知識の正当化とはなんなんだろうか。個人という視点に置いたとき、その人はどのように物語を立ち上げて、知識や事物をどのようにマッピングするのだろうか。だいたいここまでが、修論の基本的な問題意識になってくるのだと思う。