静岡CARPに謝りたいこと、進言したいこと

静岡CARPとは

「CARPでは、統一原理を学び、“為に生きる”実践を通し、
 社会や世界に貢献できる人格・人材を目指します。」
 静岡CARP(原理研究会)ブログより(http://hamamatsu-carp.seesaa.net/

何について謝るのか

CARPの評判を一方的に貶める内容の一連のツイートについて。

(例)
https://twitter.com/suneo3476Doc/status/715382988771446784(※自主削除済み)

もうなりふり構わん、新入生は https://twitter.com/search?q=%E9%9D%99%E5%A4%A7%20carp&src=typd … を読め、 https://twitter.com/shizucarp をブロックしろ

https://twitter.com/suneo3476Doc/status/584727681213661184

新入生が学生団体を装った宗教勧誘を受ける季節になりました(気をつけましょう) https://twitter.com/search?q=(CARP%20OR%20%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%97)%20AND%20%E5%8B%A7%E8%AA%98%20-RT&src=typd

その他いくつか。

なぜ謝るのか

私が静岡CARPを高く評価できない理由は別にあるが、
それを差し置いても私の過去の発言は以下の理由で正当でないと判断したため。

理由①:無根拠

私が静岡CARPについて知りうる情報は、上述のブログおよびTwitterからの情報と、
Twitterをタイムライン検索することで回収できる噂レベルの情報しか無い。
私はのメンバーと面識があるわけでもなく、直接勧誘を受けたこともない。
そのような状態で、誰かに彼らからの勧誘を断れと言う筋合いなど無い。
今春までそのような状態にあったことを心から恥じている。

理由②:他の学生集団との差別

上述した通り静岡CARPは統一教会系の学生組織である。
私が高く評価できないと考える浜松キャンパス周辺の学生組織は、
何も静岡CARPに限った話ではない。
しかし、私はそれら全てに言及をせずに、静岡CARPだけに否定的な
見解を述べるのは、他の学生集団のなかで彼らを不当に差別することに他ならない。
もちろん、「みんなCARPを忌避しているから」という空気に乗って
そういった旨の発言をしていたのもあるのだが、
年を重ねるにつれて主張が過激になっていったことは否めない。
大変恥ずかしく、反省すべき点であると思う。

以上を踏まえて、顔も名前も知らない静岡CARPメンバー各位に向け謝罪し、
深くお詫び申し上げる。ごめんなさい。

進言:もっと堂々としましょうよ

ここまで大変腰を低くして謝ったのだからというのは変かもしれないが、
私にはカルトだからといった抽象的な理由で静岡CARPを低く評価している
のではないという主張をしておきたい。

私は、静岡CARPはもうちょっと堂々としてもいいのではないかと思う。
ブログを読むと定例研究会を行っていて、社会還元活動も行っているようであるし、
きちんと申請すれば静大祭に出展して正当な広報ができるはずである。
しかし、ここばかりは噂を元にした情報で申し訳ないが、
彼らはアンケート調査を装った勧誘活動をしているという。
「なぜそんなによそよそしくするのか? 別にカルトじゃないんだから、
もっと堂々とすればいいのに。そんな自信が無いのはなぜ?」
といった疑問を持つのはおかしなことだろうか。
そういった点で、私は彼らに真摯でない印象を強く持ってしまった。

ただし、彼らばかり非難してもしょうがないのは承知している。
あまり学外の任意団体の活動について目を向ける機会が少ないのは、
この浜松キャンパスの閉鎖的な特性によるものであるような気もするのだ。
サークルという形式を取らない活動は自分もいくつかやっているし、
あまり情報は拡散していかないが、その範囲でうまくやってるつもりである。
彼らにしてみれば、このような場所は若干な不利な土地なのだろうし、
及び腰での勧誘活動で済ませたくなる気持ちもわかる。
だからこそ、自分達は何者で、何がしたくて、一緒にこういう活動しませんか、
と訴えることが大事なのではないかと、なおさら思うのである。

おわりに

少ない信憑性の薄い情報で何かを断言してしまうのは危険で
自分はそうならないように気をつけようと思っていたら今回そうなっていた。

ここで思い出すのは、昨年の大祭委員会のTwitter規制の件である。
当時Twitter上では大祭委員会に向けた批判が飛び交っていたが、
実際の説明会で批判を行った人間はおらず、また事務局営業中に
実際に直接向かって議論をしたのは一人だけだったという。
大祭委員会はなにもTwitter上の意見を回収する義務はない。
直接言わなければ伝わらないのである。

私が昨春、学生委員会の木谷先生に言われたことと同じである。
https://twitter.com/tomoyapp/status/650811138209288192

SNS経由ではなく,今用意されている正規のチャネルから提案してくだ さい.
匿名アカウントがSNSで意見を述べてもそれが汲み上げられることはありません.

いくらシグナル性(意味、意義を持っていること)を持った発言も、
正当なチャネルを通さなければノイズに過ぎないのである。

今回私がやったことで謝りたかったのは、
ノイズを元にシグナルにすらなりえないノイズをさも
シグナルのような顔をして撒き散らしたことである。

それについて、私がシグナルを書こうと思った時に使う
「ブログ」というチャネルで発信しようと思った次第である。

以上。

4/13水「新歓カフェ」告知

☕宣伝。4/13(水)16-18時、情報学部2号館1F東リフレにて、
静大情報学部珈琲研究会による「新歓カフェ」をやります。
運営スタッフによるドリップコーヒーのレクチャーを企画。
参加者にドリップコーヒー淹れ方ミニブックをプレゼント!
画像はサンプルですが、粗いのでデータ欲しい人は下記参照。

📄ミニブックのPDFデータをダウンロード配信中
http://suneo3476.github.io/cafe
印刷すれば✂自作できちゃいます✨

🏪プリンタの無い人にコンビニのネットワークプリントを用意
サークルK、サンクス、ファミマ、ローソンに行く
②ネットワークプリントにユーザ番号 073535R5ZZ を入力
③「静大珈琲研式ドリップマニュアル.pdf」を選択&印刷
 (※印刷代は各自ご負担願います ※印刷期限は4/20 0時)

🙇当日スタッフ&🏻運営メンバー募集中
現在コアメンバー3人でカフェを企画・運営しています。
もっとできることを増やしていくには人の手が必要です。
当日参加してくれる人、継続的に運営に関わりたい人は
私へのメッセージか、研究会の次の連絡先までお願いします。
yoshida ☆ inf.shizuoka.ac.jp ←☆を@マークにしてください

🏻当日を楽しみにしています!

(書き終わってから、肝心の新入生の誰ともあんまりネットで
 繋がっていないことに気づく…)

『キャラの思考法』買った冒頭読んだ報告

大衆文化・サブカルチャーをテーマないしサブテーマに扱う卒研が増えてきているなかで、「キャラクター」、「キャラ」という概念は抑える必要のある要素だと思うのです。伊藤剛大塚英志といった論者がそれらについて語っているものの、「オタク」的とされる文化の範疇の議論であることは否めず、またボク自身も予想される議論の体系化の作業量に躊躇していたところで、いっそ学部で「キャラクター概論」みたいな講義ができないかなぁなんてことも思ってました。

そこにふと、@someruという方の『キャラの思考法』を上梓したという報告と興味をそそる補足のツイートを目にしたのです。「きたか!?」と思ってアマゾンでワンクリック注文して今日それが届きました。

キャラの思考法: 現代文化論のアップグレード

キャラの思考法: 現代文化論のアップグレード

https://twitter.com/suneo3476Pro/status/679231341246873601

とりあえずⅠ章「キャラ×アイドル 新しいキャラの時代」1節「組み合わされる女 初音ミクの居る時代」だけ読んだんですけど、某新書タイトルをパロって簡潔に要約すると『初音ミク中森明菜を超えた』という内容です。それはつまり、受け手がただ送り手から与えられた物語をそのまま消費するのでなく、受け手の側から送り手に対して自由に物語を作り出して読み替えられるような、アイドル的存在の「きれいな偶像性」が中心的トピックになってきます。架空アイドル「芳賀ゆい」、2ちゃんねるの「オマエモナー」とのまネコ問題、デスクトップマスコット「伺か」といった事例を参照しながら、受け手同士のムーヴメントとしての比較を行っています。

この節だけ読んでも、残りを読むのが楽しみになってきました。ただ、読後感として不思議な「物足りなさ」も感じるのは何故なんでしょう。どうやらボク自身には、このテクストを議論ではなく一種の創作物、作品として見なす態度が潜んでいて、それがボクにこの議論の拡張あるいは補強、事例の追加といった物語への積極的介入を欲望させるように働きかけてくるのを感じるのです。たぶん、そんな読者と書物のインタラクションを楽しむエンタメとしての読書ならそれが許されるのでしょうがw。

買った報告、頭だけ読んだ報告でした。

集合知とはどのような知識か

問題意識

集合知とはどのような知識だろうか。本記事は『集合知プログラミング』『集合知の作り方・活かし方』の2冊に基づいて考察を図るものである。

本論

まず、『集合知プログラミング』(Toby Segaran・著、當山仁健・訳、2008年)(pp.2-3)から説明を再構成する。

集合知プログラミング

集合知プログラミング

一般に用いられる集合知という言葉は「集団の意識や超常現象を想起させる」ことを意味するが、技術者が用いる場合には、未知の知見を「集団の振る舞い、嗜好、アイデアを結びつけること」によって生み出すことを指す。

沢山の人々の回答を利用するという意味では、インターネット以前にも世論調査という形で集合知は実践されてきた。つまり、集合知とは「独立した貢献者たちから新たな結論を作り上げること」である。言い換えれば、集合知はそれを生成するためのプロセスや方法論を必要とするのである。

集合知のよく知られている例として経済市場が挙げられ、そこでは「価格は個人や協調によって決められるのではなく、多くの独立した人々のそれぞれが、もっとも利益を得られると信じて行動する振る舞いによって決まる」。つまり、集合知の生成プロセスの元となる個人の行動・判断は本人の意思に基づいて行われ、他人の判断とは独立したものである。

集合知におけるWebの意義は、インターネット利用者の行動をモニタリングすることによって「利用者の邪魔することなしに」情報を抽出・処理・解釈することが可能なことにある。対称的なアプローチとしてWikipediaGoogleを例に挙げると、Wikipediaは大規模な百科事典を作り上げることに成功しているが、記事の編集・管理にはあくまで人手を必要としており、ソフトウェアが人々の貢献に関わっている部分はない。一方でGoogleでは、ページ評価アルゴリズムPageRankを用いて、利用者のデータに基づいたWebページのスコアリングを行っている。重要なのは「単に情報を集め表示することではなく、情報を知的な方法で処理し新たな情報を生み出すことである」。

また、『集合知の作り方・活かし方』(石川博・著、2011年)によれば、情報爆発によって質的に増大する情報の多様性を集約することで、「浮かび上がってくる構造や意味の中にいわゆる集合知が現れる」(p.2)としている。「集合知」という言葉の操作的定義は行われていないが、検索エンジンが検索結果の多様性を保障することの限界を指摘しつつ、数学的な集合概念を用いた対処方法について議論している。石川氏にとって集合知とは、情報の多様性を解決したものであると言えそうである。

集合知の作り方・活かし方 ?多様性とソーシャルメディアの視点から?

集合知の作り方・活かし方 ?多様性とソーシャルメディアの視点から?

まとめ

集合知は自身を生成するプロセスを必要とする。そのプロセスは情報の多様性を解消する方法論が必要とされている。また、集合知の素となる個人の行動・判断は他人と独立している。集合知におけるWebの意義とは、インターネット利用者に介入することなく知的情報処理によって新たな情報を生み出せることである。

感想とか

Twitterで適当に疑問を言ってフォロワーからアドバイスもらうのを集合知だと勘違いしていたので、意味を丁寧に吟味することは大事ですね。Yahoo!知恵袋教えてgooなんかは「知識共有コミュニティ」として研究対象になっていて時々「集合知」というキーワードが混じっていることがあるんだけど、あれは質問者と回答者のやり取りを指して集合知って言ってるんじゃなくて、恐らく個々の独立した質問スレッドから有用な知見を取り出すプロセスを集合知って言ってるんだろうね。すると、断絶したコンテクストをまとめるってところに集合知の価値や意義みたいなものがあるんだろうね。

現実空間に連結された音楽

ゲームのポケモンRPGみたいに、常にその場所に応じた音楽が空から聞こえてくれば現実世界ももう少し楽しくなるのにと思うことがしばしばあって、今日大学から自転車で帰るあいだ、音楽を鳴らしっぱなしにしたスマフォをウェストポーチに入れて、走りながら音楽を聴きながら帰ってみた。

「ご〜」という大気の音と自転車で風を切る音と音楽が混ざり合って、世界のどこかから音楽が聴こえてくるような感覚が得られてこれはこれで楽しかった。どうせなら朝登校する時にやりたい。

この「現実空間に連結された音楽」概念が一般化する頃にはきっと、県や市、企業、お店、住民が作ったオリジナル音楽が全部自治体ごとにリスティングされて、市町村丁字の境を越えたり建物を出入りする度に音楽が変わる、みたいになっているかもしれない。そうすると、人々は今自分がどの町にいるかを意識するようになる。皆が皆聴くわけじゃないはずなので、聴いている人と聴いていない人の間でディスコミュニケーションが生じる。イヤホンで自分の好きな音楽を聴く人との間でも意識上で差異化が行われる。パブリックな音楽と、プライベートな音楽という概念が生まれる。音に関する公共意識に対する問いかけがきっと出てくる。

実際に実現するとしたら、皆にアプリか何かを持ってもらうのが現実的だと思う。空中にスピーカー飛行させるのは現実的ではない。町内放送のスピーカーだと音割れしそう。

問いのアイデア出し(女装)

https://speakerdeck.com/suneo3476/nazenu-zhuang-wosurufalseka?slide=3

・この「服装をhackする」って表現、気に入ってます。
ハッカーの観点から女装をどう評価できるでしょうか。
・本当にhackして自分の性を「曖昧にする」場合、実際に着るのはユニセックスな服ではないでしょうか。
・しかし、ユニセックスは果たしてジェンダー的中立でしょうか。例えば私が指向する女性観は伝統的なジェンダー規範に従うものです。
・女装しないと本人の性が永遠に問題化しない社会環境にこそ問題が感じられませんか。

ネット著作権モラルを破る側の論理

Twitterのタイムラインで、他人の描いた絵を自分のpixivアカウントに投稿して、絵師側と相手の間でトラブルになった例を見かけたことがある。いわゆる画像の無断転載であり、絵師側が相手に絵の削除を呼びかけるのは正当である、ように見える。しかし、これはネット著作権モラルを「守る側」の論理に過ぎないのではないか。なぜネット著作権モラルが破られるのかについて、「破る側」の観点から検討されたことがあっただろうか。

私はモラルを破る側が正当であるとか、味方に着くとか、そういうことをしたいのではない。モラルの破られる原因を明らかにしないままモラル違反を批判することは、モラル違反を根本的に失くすことには繋がらない。「無断転載」は断罪側の意味付けに過ぎないのにも係わらず、無条件で相手を斬り捨てられる「常識」や「マナー」として扱われていることに遺憾であると思う。

こんなことを言うと、「その場所にたまたま置いてあったという理由で物を持って行ったら盗難にならない」などと批判されそうだが、あくまで私が想定している場は携帯、スマフォ、PC〜ネットという空間であって、ネットだからこそむしろ捨象されている要素があるのではないかというところに、私の問題意識はある。そこを具体的に検討していくことで、むしろ人間の行動を規定する携帯、スマフォ、PC〜ネットの持つ特質を明らかにすることができるのではないか。人間が情報環境で不自由にならないためのヒントが、そこにあるように思う。