日記

 リアルで十分な学びが得られたならば、わざわざネットにシェアする意味はなんだろう。もはやそれはポーズでしかなくなるんじゃないか。今日のガバ研で得た学びがどういった人々にも伝えたいかは自分のなかではっきりしているけど、行動に直結するほどのものでもない。あたしが伝えなきゃ伝わらない相手がいることはたしかだけど、学びそれ自体に価値がないのではなく、私が誰かに伝えることに価値が感じられない。そういうことってないかな。

 だから、今は脱力して学びの断片を書く。

  • アニメキャラのステレオタイプ化はキャラクターの個人的にも集団的にも起こる。
  • キャラ・ネタ的な作品の消費形態が過熱すると物語的な消費の価値は置き去りにされる。
  • 今のアニメ業界はキャラ・ネタ的な消費者相手のコンテンツを過剰に出す傾向にある。

 下の段落を書いてたら愚痴になったので愚痴と予告する。

 議論の過程を書かないと「この人はどうしてこう言っているんだろう」と思われてしまうかもしれない文が並んでいるが、それを書く熱量を持っていないから脱力なのである。書き手に全能感を求められても困るといいますか、ネットの放言を見ていると思うんですけど、読み手がもっと過程を想像したり理解したりする能力は必要なんじゃないか。「どうしてこうなんですか?」って対話すら始めずに「この人はおかしい」と結論づけてツイートなどをしてしまうのは、なんかこう、自分で自分のリテラシーの低さを暴露していてそれはそれで萌えるんですけど、全体としては何も嬉しくないよね。

 ネット上ではもっぱら文章が完全な形で提示されることってないんじゃないかな。文章と読み手同士のテクスト的なインタラクティビティを否定してやりたいわけじゃないけど、書き手のことをいささか選択的に忘却しようとしているようで、だから大事なこととして、文章をテクストとしても作品としても読むという姿勢は、忘れないでほしいな。