日記

 サンスティーンが説くような「共通体験」を獲得することが、あたしの人生のひとつの里程標だったように、今となっては思える。今日、自主ゼミの人と「エレベータの目の前で立つ人いらいらするよね」的な話をして、その原因となる人間の認知的、哲学的な構造について語り合った。そういった詳細は省くとしても、あそこまでの思想の共有はあの人が初めてなんじゃないかと思う。たしかに、それまでにもとことん語り合おうとした相手はいるのだけど、あたしの言語能力や分析能力が未熟なせいでそれは未遂に終わったんじゃないかと思う。
 ちなみに、その人は京都学派の日本人哲学者・西田幾多郎の研究をしている。西田の哲学行為の本来の目的はまた別の話になるけど、他人との「純粋経験」(≒共通体験?)を確かめ合うことが大事かもしれないという(精神病理学者・木村敏の立場)。

 また話は飛んで、本当はその前に情報学や情報学部の話をしていた。おおむね、学術的、社会的な存在の不安定さや不明瞭さがそれを成り立たせているのではないか、つまり情報学や情報学部にテーゼを問うとするならば、常に自身の存在について疑義を持ち、事ある毎に捉え直していく「アンチテーゼ」こそが彼らのテーゼであり、「非(アンチ)」情報学、「非(アンチ)」情報学部という接頭辞がつくのではないか。経営情報学部、人間情報学部といった「そうであること」を保証された他の情報学部の何よりも、その存在を突き詰める使命があるのではないか。そういった共通見解になった。(追記:アンチなら「非」じゃなくて「反」の方がより正しいかも。まぁ、「未」や「不」であってもそんなに間違いでないのがまた面白いのだけれども)
 その人は、私からすれば哲学を極めつつある人であるが、それは関係的にそうであるに過ぎない。本人もまた師事する?あの先生に漸近しようと努力を重ねているようである(あたしの目にはそう映るという意味で)。哲学をプログラミングに置き換えれば、その人はあたしと立場が逆転するのだから、やはり関係的である。そのような関係性は想像上の産物、イメージであるし、認知科学的にも形而上学的にもそうだという合意をその人としたけど、怖いのはあくまでそれが学術的なコンテクストに安住していることだ。
 きっと、市民(その人とはよく「一般の人」という意味でくだけた言い方をする)が純粋な意味で考える「他人」の捉え方やその語り口とは別物だ。それを間違いだと学術的立場から否定するのは、どうにも「専門家」(市民と同様に、ガバナンス論的な言い方)のエゴに思えてならない。少なくとも、市民は間違えようと思って間違えていないと考えられるからだ。ここに、専門家と市民のディスコミュニケーションという不幸が起こるわけで、現実として色々対処ができるのかもしれないのだけど、その方法論についてはお互いに関心を持っていなかった。むしろ、「人間は意図せず間違える」という知見を得られたことに、お互いに幸福を感じていた。大変伝わりにくい幸福であると思うし、テキスト表現の限界ということで許して欲しいところでもある。

2コマ「認知科学論」担当:高橋晃

 脳研究手法の系譜。ロボトミーはやはり黒なんですね…。ラットやその他の古典的な動物実験の例を見ていると、10万年後くらいに進化した彼らに人間の歴史的責任を追求されたらいやだなぁ、と思った。今のうちにちゃんと学術としての弁解を立てるべきじゃないかな。立てる場所は本でもネットでもなんでもいいから。きっとその頃には社会生物学の知見も大いに役立ってそうで、SF感がばりばりある。

4コマ 研究室ゼミ

 サーバ復旧作業をした。最初に環境構築した一年前は三日三晩泣きながらやったけど、今では実質半日ほどで終わるのでそれなりに成長したようである。

放課後

 冒頭にある通り。