アニメを見ることのエンタメ性について〜こころの深層に関連して #kokoronos

漢字の話

漢字にはこだわりがあります。目を通して「みる」という言葉には、
次の漢字と用法があると理解しています。

  • 見る:「みる」のは物体だけでなく「調子」など対象が「視えない」こともある。
  • 観る:特定の対象を、興味・関心をもって「視る」こと。
  • 視る:目に何かが入っていることそのもの。

「視る」が「みている」行為・状態そのものを指すのに対して、
「見る」「観る」からは「みている」対象から何かしらの情報を
引き出そうとする意識が感じられますね。

では、「アニメを見る」「アニメを観る」ではどうでしょう?
「観る」からは、テレビやPC通して習慣的に何かを「みている」という、
行為の付加的な意味が強調されているような印象を受けます。
(もちろん「手相を観る」という観察的な用法もありますが、
一般的に考えて、テレビやアニメは観察物でしょうか?)

それに対して、「見る」は「みている」行為でもなく、その意味でもなく、
「みている」対象が何であり、そこから何を「みている」のかが大事、
そういったニュアンスが受け取れませんか。

見方の話

本題としては、「こころの深層」の話です。

「こころの深層」は毎回アニメを視聴する静岡大学の名物講義で、
表層的な映像表現から民俗学社会学記号論といった方法論による
分析アプローチによって、作品の物語、キャラクターの深層的な
意味表象を考える内容です。

(「こころの深層」の詳細はこちらの記事で。
 http://suneo3476.hateblo.jp/entry/2015/04/09/201249

漢字の話でいけば、この講義ではアニメを「見」ます。
ではどう見るか。そのヒントを紹介します。

「アニメは記号だからねー。どんどん過剰になる。」

http://b.hatena.ne.jp/clapon/20160429#bookmark-286346378
id:clapon 氏のブックマークコメントより引用

これの言及対象のブログでは、ざっくりと言うと「最近のアニメっておっぱい揺れまくるよね」という話です。
それに対するこのコメントを読んで、「大きな胸の存在自体がすでに記号だったのに、
揺れた/揺れないことで胸の存在を確認しようとするアニメ視聴者が、
最近のニコニコ動画のコメントでよく見かけるようになったなー」と思いました。

同様のことがパンツにも言えるでしょう。
キャラクターがパンツを履いていることそのものよりも、映像内でパンツがみえる/みえない
(漢字の話的には「視」ですね)、はいている/はいてないことに注目する視聴者がいますし、
それを逆手に取ったストライク・ウィッチーズを知った時は斬新だなーと思ったものです。

とかく。「こころの深層」では嫌というほど映像を観察して、映る「もの」から「意味」を発見
する作業が繰り返されます。しかし、いくら揺れるおっぱいを見ても我々にはその記号内容が
おっぱいだと断じるほかに解釈することができません。おっぱいはおっぱいだし、
母性の象徴といってもだから何だという気持ちになってしまいそうですね。

そういったことを考えていると、アニメを見て、わからないからまたアニメを見て、
というぐるぐるループが発生してしまいます。なんのためにアニメを見てるのか…。
レポートを書いていてはそんなことを思ってる人がいると思います。

私がアニメを見るときに大事だと思うのは、この「なんのため」という部分にあると思います。

なぜ「まどか☆マギカ」のマミさんは3話でさよならしなければならなかったのか。
「そういう物語」だからと受け入れて、後に引くショッキングを感じ取るのは、
どちらかといえばエンタメ的なアニメの見方だと思います。

この講義では少なくともそういう見方ではないでしょう。
「なぜマミさんは死んだのか?」という問いの答えを、
「マミさんが油断したから」といった物語中の要素から導かれうる因果関係からではなくて、
「マミさんは伝統的古典的な戦う魔法少女の象徴的存在であり、彼女を物語から退場させることは
まどマギ」がこれまでの「魔法少女もの」ではないことを示している」のではないか。
といった風に、アニメと内部と外部を連結して論じることが大事になってきます。

それは、アニメを見ている「わたし」の存在を自覚する作業にもなってくるでしょう。
なぜなら、物語の因果が作品で閉じているのであれば人間がタッチして語る必要はありません。
我々がアニメを「見る」ことで、物語の因果を解き明かす楽しみは生まれていく、と言えるでしょう。
それは、アニメを見る人間に用意された、もうひとつのエンタメなのかもしれません。