ポール・ヴィリリオ『戦争と映画』 Ⅴ 映画館「フェルン・アンドラ」 レジュメ

 ポール・ヴィリリオ『戦争と映画』のⅤ章「映画館「フェルン・アンドラ」」(p.177-204)の輪読用レジュメを作ったので、せっかくなのでUP。


映画が戦争の道具となるまで
●映画業界のようす
・1916年アメリカ参戦後のハリウッドでは、毎週のように映画スタジオのスタッフが駆り出されて大通りを行進し、女優らは看護師の格好で練り歩き、俳優らは大演説を行う
・「人々は俳優の身振りに魅了され、戦争公債を買ったわけであるが、政治家のためということになれば、そんなことはしなかったにちがいあるまい」
⇒ 映画の宣伝に見せかけた戦争のプロパガンダが何の困難もなく行われた事例
セシル・B・デミル氏は『十戒』撮影期、自分自身がユダヤ民族を導く神そのものになった気でいたといわれ、周囲の人間(無名のエキストラ)に支配力を及ぼし、未来を占う絶対的なカリスマ性とでもいうべきものを所有するにいたった
⇒ 作品が現実に支配者と被支配者という権力構造を生じさせる事例

●演出家としてのリーダー
西ヨーロッパ、ソ連などで登場したリーダーは、映画監督と俳優らが身につけていたカリスマ的影響力を大衆に及ぼした。現実の権力は軍事の兵站術/映像と音響の兵站術によって分割支配され、議会権力は消滅してしまった
・「カエサルよ去れ!……汝の任務は終わった。カエサルからムッソリーニが生まれ、このひとは歴史をみてもくらべられるもののないほどに強くそして逞しい。このひとの意志は、超自然、神、奇跡、世に降りたキリストなどを受け継ぐ……。」(『カエサルの再来――宿命のひと』よりの一節、1936年)
ヒットラーは歴史上の人物のうちでだれをモデルとするのかと尋ねられた際に、予想されたビスマルクの名は出さず、何とモーゼと答えたのである。
⇒ リーダーが重点的に行っていたのは支配/統治というよりも演出
・「あの時代の犯罪的出来事はヒットラー個人に原因があるのではなかった。ヒットラーの犯罪が異常なのは、他の誰よりも早く科学技術がもたらす手段を取り入れて犯罪を行ったという事実からも同時に説明できるのである。」(ニュルンベルク裁判のアルベルト・シュペーアによる最終陳述)
⇒ 「映画はこのような手段のひとつだった。」


脱劇場化/脱映画館化する幻視
ヒットラーの大衆観
「大衆は幻影を必要とする。彼らには、劇場や映画館以外の場所において、幻視が必要となるのだ。彼らは現実生活の苛酷さには十分苦しんでいる」(ヒットラー、1938年)
⇒ 幻視=映像による非日常性、スペクタクルの擬似体験
⇒ 苦しい日常生活を送るドイツ国民の逃避の場
⇒ ヒットラーの戦略は、大衆が欲望する幻視の矛先を欧州全土に向けること

●語られるヒットラー
・「ヒットラーは、たぶんわれわれが思い描いていたような大政治家ではなかったが、まれにみる人間心理の洞察者であったことは確かだ。……彼は作戦の実践行動力よりも、その心理的効果をまず考えるのだった……」(建築家アルベルト・シュペーア
⇒ ヒットラーの演出能力と知識こそがヒットラーの犯罪的行為の本質
ヒットラーは当時最高の商標考案者(作家ジェイ・ドブリン)
⇒ 逆十字の図案の単純さによる強い印象、他との峻別の容易さ
・「何かがおかしいのは判っていたのだが、ほかならぬ総統の言葉というだけで真実になることがあった」(映画監督ファイト・ハーラン)
・ファイト・ファーランは、ニュース映像の中では総統の催眠術師的な能力が効果をもたないことを発見
⇒ ヒットラーのカリスマ性は彼の物語に同居する被支配者にのみ有効

●ナチ物語のアクターとしてのドイツ国
ヒットラーが必要とするのは、ドイツ民族を幻視者の市民の集団に変え、「自分たちは内容を知ることがなくても、夢のなかでその字句を暗唱できる法にしたがう」(ヨーゼフ・ゲッベルス、1931年)人々の集団として彼らを作り変える力持った人種
⇒ ドイツ民族から思考を剥奪し、ヒットラー超大作で都合よく振る舞うアクターに仕立て上げた
ドイツ国民とその指導者は、「もはや善も悪も、時間も空間も、つまりはなにごとも意味を持たず、一般には成功と呼ばれるものも尺度になり得ない」(ゲッベルス)世界の内部で動き回る
⇒ すべては超大作のシナリオに沿って進行し、作品のキャラの意思はシナリオの変更に与しない

●映像作品としてのナチ党大会『意志の勝利』
『意志の勝利』……ニュルンベルクで一週間続く予定のナチ党大会を撮影・制作したもの(参考:5ページ)
・「この怪物的な計画にあって最大の脅威は、どこまでも本物としか見えないような作り物の世界が創造されることにある。その結果として、記録としてはあくまで本物だが、デッチあげの出来事を物語る作品だということにおいて最初のものであり、最重要のものが誕生する。」(アモス・フォーゲル)
⇒ 映画内容の二重性(事実としての党大会/物語としての党大会)
・「大会の準備は映画の準備と並行して進められた。つまりこの出来事は、ただ単なる人民集会としてではなく、プロパガンダ映画の材料を提供する形で組織されたのだ。……すべてはカメラとの関係において決定された……」(レニ・リーフェンシュタール、『第三帝国党大会の舞台裏で』)
⇒ 単なる物語としての物語ではなく、事実性を併せ持った物語としての物語
⇒ 事実と物語の境界を曖昧にしながら、物語という表の顔を見せた映画作品
・軍参謀の役割にも比すべき光学運動的な役割が建築家に与えられている。換言するならば、建築物に関しても、変容するもののなかで何が永続的なのかを決定する能力が問題なのだ(舞台装置製作を任されたシュペーア、『廃墟の価値に関する理論』、1938年)
シュペーアは投光器を並べ、垂直光線を放ち、多柱様式の石柱のような印象を作り出す
⇒ 究極の建築はもはや建てないという戦術を取る


映像によるドイツ社会内外意識の構築と崩壊
●ドイツ映画―ドイツ国内―ウチ
・ドイツでの感傷的な映画(ミュージカル映画、祖国愛の映画、夢物語)の製作と流行
・帝国の不死の人々の活人映画は「鉄の戦線」を意味し、ヨーロッパ要塞構築の儀式を繰り返し行う戦争の等圧線にほかならないという意識の存在
⇒ 外(ヨーロッパ全土)と分節された国としてのドイツに対する平和認識の常態化

●ニュース映像―ドイツ国外―ソト
・ドイツ軍はどの舞台にもカメラマンを配置し、どの連隊にもPK(情宣部隊)がおかれ、「映画―軍隊―プロパガンダ」、すなわち「映像―戦術―シナリオ」の連動体制によって情報が集約、処理
⇒ ドイツ国内と敵国最前線が科学技術(メディア)によって連結
⇒ 「そこでは全てが真実であり、全てはまた、光線戦争のリアルタイム、科学技術に直結した爆撃の現実の速度に近い強化時間のなかで展開する」(レニ・リーフェンシュタール

●ニュース映像についてメディア各紙
・あくまでもほんとうのニュース映画に全面的に依拠しながら映画製作が行われるのも
同一線上で考えられる。(『ベルリナー・ツァイトゥンク』の記者、1941年)
・「映像にはその場の劇的緊張感が欠けているが、単純化されたモンタージュ、雑多な材料をつなぎ合わせたそのモンタージュと解説は、歴史的事件の振動するリズムを観客に伝えるにちがいない」(『シグナル』紙)
⇒ 兵站術としての映像と音響は、プロパガンダ映画製作期から引き続いている

●国内への戦線拡大とウチとソトの崩壊
・1943年ルーズベルトが総力戦開始を宣言し、連合軍空軍部隊は地域全体の破壊を目標
・平和領域ドイツ国内が戦場と化し、戦線が現実生活の全ての局面に拡大し、目標は消滅
・ドイツ大衆は映画に放り込まれてもなお戦争にスペクタクルや神話性を求めて行動する
⇒ ヒットラー超大作の名もなきエキストラと化したドイツ大衆


映像に囚われた支配者の末路と超大作のシナリオが暴かれるまで
●計画倒れした映画
・1943年ヒットラーはドイツ軍と連合軍の激線歴史映画の撮影を命令(イギリスの屈辱戦)
・計画を知ったイギリスはラジオ放送でリメイクの準備(勿論負け戦の再現ではない)を宣言
・レーダー、デーニッツ、ゲーリンクらによってヒットラーに計画中止を説得(スゲェ)

●最後の映画
・1943年ヒットラーは「ナポレオンの大砲」を再現する映画『コルベルク』の撮影を命令
・物資欠乏期なのに六千頭の馬と二十万人近くの人間が雇われ貨車で雪が運ばれる
・爆撃を受けたベルリン郊外の廃墟で火薬爆破を実行、撮影

ヒットラーの死後
ヒットラーは自殺し、映像の地獄に別れを告げる
⇒ 映像の兵站術の囚われた身からの解放、超大作の完結宣言 ―完―
ドイツ国民は幻視から覚醒させられる(脱ナチ化)
・「フォリソンのように、大量虐殺は現実にはなかったと言い出すものも出てくる」
⇒ 我々の現実における大量虐殺 = 我々の現実における非現実的な出来事
⇒ 彼らの現実における大量虐殺 = 彼らの現実(物語)における現実的な出来事
⇒ (彼らの)物語としての大量虐殺は(我々の)現実には無かったという奇妙なロジック

●連合軍の勝利戦略
・「連合軍は光学的な技術の面での前衛になることを通じて、ヒットラーのカリスマ的絶対性を崩壊に導いたのである」
⇒ 超大作における物語の主体性(舵取り)と前衛の決定権はドイツ軍に存在した
⇒ 連合軍は超大作を脱構築して物語の主体性を獲得し、前衛をドイツ国内に移した
・「ここにおいてシナリオの謎にとってかわりテクノロジーの謎が現れ、それが現実の戦争の概念そのものになろうとする」
⇒ 超大作の物語の解明は完了、下位問題(暗号解読技術)に着手
⇒ ドイツ軍を統御あるいは物語を駆動していたものの正体は作戦伝達手段である暗号


映像と音響の兵站
・軍隊が極端に増大化するとともに、二次元平面上で想定した戦闘秩序を大地で再現することが困難になる
⇒ それ以前の視覚的把握可能な戦場では、まだ人間の知覚が有効とされた
・以後、軍隊は複数の移動部隊による編成に変わり、各部隊は自分たちの視野の外から来る命令に従う
⇒ 諫山創進撃の巨人』に登場する調査兵団は広範囲の隊列を組む部隊が信号弾で連絡を取り合う
・大規模な戦闘において、情報は個人に占有されず、かつ一次情報の単なる集約は客観的真実足り得ない
⇒ 一般兵の知覚に意味が生じなくなる事態
・人間が知覚するより遥かに多くの事実と効果を記録分析し、再び舞台装置の中にマッピングする
・「加速度的な移動という補完代用物において臨場性の効果は失われ、全面的にシミュレートされたみせかけの像を作りだす必要がある。つまりはメッセージ全体の三次元的再構成のことだ」
⇒ 加速度的な移動=人間の時空間認識を超越する科学技術による部隊間の情報伝達
⇒ 臨場性の効果=対人間における情報伝達の意義、必要性
・「時間意識のミニチュア化は……軍事テクノロジーの落とし子だといえる。この領域では初めから常に出来事は理論的時間において展開する。……映画においても同じ現象がみられるわけだが、この場合には、生起する事件はけっして時間と空間の共通原理にしたがって秩序化されはしない。……時間と空間の原理の相対的で偶然的なねじれこそが秩序化をもたらすのだ」
⇒ 軍事の兵站術においては事実としての現実性を構成する時間と空間が尊重される
⇒ 映像化された現実は事実としての現実性と物語としての虚構性を兼ね備える
⇒ この点において、映像と音響の兵站術は軍事の兵站術と決定的に異なる


付録1手塚治虫アドルフに告ぐ 第一巻』(文藝春秋、1985年)p.66-73
主人公・峠草平(とうげ・そうへい)のナチ党大会観察シーン





付録2:映画館「フェルン・アンドラ」とは何か
●映画館「フェルン・アンドラ」とは
「一九三九年秋、ヒットラーは車でミュンヘン市内を通過していたときに、彼のお気に入りの映画館『フェルン・アンドラ』の名前が変わってしまったのに気づき激怒した」(ドイツ政治家ルドルフ・ヘスの証言、アルベルト・シュペーア『シュパンダウ日記』p.401)

●「フェルン・アンドラ」は何を指すのか
・フェルン(fern):遼遠な、はるかな、遠い、程遠い、遠くに、堯、遠隔の、遠き
アンドラ(Andrang ?):雑踏、輻湊
・ドイツ人気女優「フェルン・アンドラ」説
⇒ ヴァイマル期に演劇及び映画で活躍した女優の名
⇒ 『ゲニーネ』(Genuine: A Tale of a Vampire)(ドイツ、1920年)の主役を演じる

●映画『ゲニーネ』
・血液宗教の女優であるために血を欲求し、周囲の人間を翻弄する東洋の美女ゲニーネの物語
・『ゲニーネ』の原作は「カリガリ博士」のカール・マイヤー

ヒットラーが激怒した理由
・ネーミングに対するこだわり?
・女優フェルン・アンドラに対するファン意識?