日記
あともう一息で風邪が治る。裏声が出る。
3コマ「システム・ネットワーク論」担当:高口鉄平
経済財としての情報を検討。
梅酒づくり
ラボの恒例行事。梅1キロ、氷砂糖2キロ、ブランデー2パック。3ヶ月後が楽しみです。
5コマ「科学技術者倫理」担当:関根理香
オウムサリン事件、大戦中化学兵器、ベトナム戦争の枯れ葉剤を取り上げる。
うまくオチが付かないまま講義が終わってしまった。歴史に学べということで良いのではないでしょうか。
キャス・サンスティーン『インターネットは民主主義の敵か』予習
「グローバル・コミュニケーション論」で輪読するので予習。
インターネットの「フィルタリング」によって市民は共通体験を得られなくなり、同じ意見の人々が集まって同じ意見しか見えなくなることで、より意見が先鋭化・過激化してしまう「集団分極化」「サイバーカスケード」が発生してしまうので、各位きちんと反対意見のリンクを貼りましょうと提案している。
ここからサンスティーン批判といくつかの論点。
極端にデイリーミーとフィルタリングが進行すれば、それは集団分極化ではなくメディア体験の個人化が起こるのではないか? 体験そのものは個人にとって固有のものなのに、どうして集団性を持つといえるのだろうか? つまり、インターネットは単にデイリーミーとフィルタリングの機能のみを持ったメディアなのであって、そこから集団化に向かうのは人間側の問題ではないだろうか?
マスメディアはこの意味で、情報の中立性を維持しようとする努力を行ってきた。それはジャーナリズム精神と称されるものなのかもしれない。真に批判されるべきは、市民にネットに対する発信態度や意識がマスメディアのそれに比して欠けていることではないのか?
ジャーナリズム精神は同書のいう「政治的主権」を維持する役割を持っている。これが無くなれば、同じく同書のいう「消費者主権」的な意識によって人々は好きな情報を得るだけに留まり、筆者の目指す討論的民主主義は崩壊する。ネットないしネットを利用する市民に欠けているのはこの「政治的主権」的意識ではないだろうか?
筆者の議論の限界点は、人間のパーソナリティを1つに限定していることだと思う。筆者の想定する市民は自己のパーソナリティを俯瞰することができない。デイリーミーは「ただ1人」という括弧付きのパーソナライズを想定した概念のように思える。これは比喩だが、自分の中に複数のパーソナリティを飼うことができれば、市民はデイリーミーを超克できるのではないだろうか?
結果はまた2日後。
- 作者: キャスサンスティーン,Cass Sunstein,石川幸憲
- 出版社/メーカー: 毎日新聞社
- 発売日: 2003/11/01
- メディア: 単行本
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