日本の電子ゲーム史をUI技術史として評価できないか?

今日、大学の休憩スペースの一角にカーナビ程度のモニタ映像を見ながら平たいコントローラ持ってゲームしてる集団がいました(多分ニンテンドースイッチ)。他人と映像を共有して遊ぶ「テレビゲーム」的な遊び方が、固定された巨大な家庭テレビを必要としない、場所を取らないポータブルな形、つまり「スマフォアプリ」の形で出来るようになったことに驚きました。むろん技術的可能性の話ではなく、そうなっている現実に対してです。
 技術的に可能でも時代が早過ぎればヴァーチャル・ボーイのように大失敗しますし(これについてはニンテンドーの経営的な失敗ではなかったことも付言します)、ある技術を社会に適用するとき、その技術が社会にどのくらい普及・浸透しているか、社会がその技術を受け容れられるかを無視するのは難しいという意味で、「技術が社会をつくる」という類の言説って疑わしいなと思いました。もちろん、技術は社会を全く作っていないとか、支えていないとか、そういった意見ではありません(念のため)。
 関係ないけど、ゼル伝やりたいなぁ……。

 なんというか、スマフォで遊んでんのか「テレビゲーム」に相当するもので遊んでんのか、見分けつかないんだよね。そう思わされた時点で任天堂の勝ちだなーって思った。

 あと、書きながら、「技術」という言い方は広すぎたと思いました。一般の使用者、消費者に見えたり伝わったりする技術というか「ユーザインタフェースの技術」がより自分の意図に合ってると思います。その意味で、日本の電子ゲーム史を、家電を含めた包括的なUI技術の発展史の中に位置づけて評価することができるのではないでしょうか。これまでの電子ゲーム史はUI技術を副次的なレベルでしか扱ってこなかったきらいがあると思います。もっと電子ゲームのUIを文化的・社会的な環境の文脈のなかで見るべきだと思います。

(※FacebookTwitterへの書込みをまとめた文章です)