会話の体力

 複数の人間とのコミュニケーションのなかで発話するとき、一連の流れの根幹を崩していないかという不安によく襲われる。もともと活発にしゃべるほうではなかった自分にとって、誰かと誰かが楽しげに、あるいは建設的なコンテクストを築きながら会話をする風景というのは、ドラマとかアニメとかマンガとか、あるいは身近な人間どうしのなかに観測してきたものだ。実際に、複数の人間が楽しいコミュニケーションを交わしていて、その場に居合わせるのはとても楽しい。楽しいけれども、その場に対して貢献はしていないし、無責任だ。自分はこのまま観測者として無責任でいるわけにはいかない、という気持ちが日増ししている。
 しかし、実際に建設的なコミュニケーションに貢献するのはかなり難しい。理由は会話へのコミット状態の維持に疲労してしまうことだ。具体的には、話の終わりが見えるまで話に付き合うのに疲れてしまうのだ。ボクは部分部分でいいから、面白いことが言えそうなタイミングで面白いことを言いたいんだ。そんな状態で会話を続けていたら、自分は適切に貢献できているかという不安に駆られて逃げ出したくなるし、寒い発言をしでかしてしまうのではないか。たとえるなら、初めて聴く曲でシークバーを弄るのが禁止されていて、サビがどこかわからないような状態だ。はじめから終わりまで聴くことに意味が無いなんて言わないけれども、長い会話のできるひとってなんて体力があるんだろう、と思ってしまう。